2010-10-15

アルメニア紀行 (4): 記念館、修道院、リフトで山を登る(9月8日)

9月に国際会議で訪れたアルメニア日記の第4弾です。前回の記事から半月近く経ちましたが、ようやく次の日の分を書きました。これまでの日記には Armenia2010 のラベルがついていますので、リンク先をご覧下さい。

今日から会議ですが、前もって渡された日程表によると、食事の時間が

  • 朝食:9:00
  • 昼食:13:00
  • 夕食:不定だが、大体19:00
となっていて、特に朝食の時間が遅いのが気になりました。何でだろ〜、と思っていましたが、アルメニアに来てみると、こちらは夏時間で、冬時間より1時間進んでいます。そこで、食事の時間を冬時間で考えてみると、朝食が8:00、昼食が12:00、夕食が18:00となり、つじつまが合うと思います。結局、現地では確認できませんでしたが、ここのホテルでは夏も冬時間で生活をしているのだろうか・・・と想像しました。

そんなわけで、朝は結構ゆっくりでして、日の出も遅いようです。7:30頃、起き出してみると、ちょうど日の出のすばらしい景色が広がっているところでした。

ちなみに、もう少し日が昇ってから、ベランダからの眺めを数カット撮って合成したのが、こちらの写真です。

さて、朝はゆっくり過ごし、9:00にレストランで朝ご飯を食べ、会議は9:45からですが、特に急ぐことなく支度をします。・・・と、会議の部屋を確認するのを忘れていました。レストランの向かい側に、比較的大きな会議場のような部屋がありそうだった・・・のですが、閉まっているようです。レセプションに行くと、レセプションの裏手・・・と教えてもらい、行ってみると・・・ありました。

部屋に入ってみますと、たいへんこぢんまりとした部屋です。その上、普通、このような会議は、講義室のように机が並んでいるような部屋で行うものですが、中心の大きなテーブルを取り囲むという、非常にユニークな形になっていることがわかりました。今回の参加者数は30人に満たないという、非常に小さな規模なので、このくらいがちょうどよいでしょう。実際、会議が始まってみると、大変ディスカッションがしやすい環境で、各講演の間の質疑応答も活発に行われ、ためになる話を聞くことができました。

そんな中で、参加者の多くが困ったこと・・・それは、参加者が個別に使える(はずの)インターネット接続が、使えないということです。一応、会議の参加要項では、エレヴァンでも、ここツァカゾールのホテルでも、参加者は各自無線LANが使えることになっており、エレヴァンでは問題ありませんでした。そこで、ここのホテルでも使おうとしたのですが・・・

最初、レセプションに尋ねると「部屋番号をパスワードにすればよい」とのこと。しかし、誰もつながりません。今朝も、朝のあいさつ代わりに「無線LANつながった?」とお互いに尋ねる声が飛び交うほど。こんな話を聞くと「そんなにインターネットにつなぎたいの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

たしかに、私のように、インターネット接続の目的がアルメニア日記の編集やら会議の模様をTwitterでだらだら書くやらといったどうでもよいことでしたら、まぁ我慢しますし、先生方の中にも、普段追いかけられているメールを読まずに済むので、出張中はメールを読まないという人も(最近はまれですが)います。しかし、一方で、今夜、別の研究会にインターネットで参加して講演するという先生もいますので、やはり研究の場には必要不可欠ということでしょう。その結果、午前中の会議が終わって昼休みになったらどんなことになったかというと・・・

レセプションに長蛇の列、というか、皆さん、レセプションの前にたかって、何をしているかというと、インターネットの接続方法の問い合わせです!

しかも、皆さんのノートパソコンがカウンターの上にずらりと並ぶ、壮観(珍奇?)な光景。

(ちなみに、本当に接続が必要な人には、現地の委員が個別に対応した以外、大方の参加者は、結局、接続できませんでした。そのかわり、ホテルのロビーにはインターネット端末があり、メールはそこで何とかなりました。Windows でしたが、日本語の表示も何とかなりましたし、日本語入力も、すばらしいオンラインIME (http://ajaxime.chasen.org/) のおかげで何とかなりました。)

さて、午後の会議も15:30には終わり、16:00は観光に出発です。私達がまず訪れたのは、ホテルのちょうど向かいにある「オベリ兄弟記念館」です。

この記念館は、 アルメニア出身で、科学で旧ソ連に知られる顕著な業績を遺した、オベリ家の3兄弟(ルベン/レヴォン/ホブセプ)の業績をたたえて展示しているもので、特に、兄弟のまん中のレヴォンがツァカゾール出身だったことから、ここに記念館が建てられたようです。ツアーはロシア語のガイドとアルメニアのガイドに分かれ、アルメニアのガイドさんの説明を、国立科学アカデミーから参加された先生が英語に訳して下さいました。

3兄弟の長男のルベン・オベリ (Ruben Orbeli, 1880–1943) は(写真を撮り忘れてしまいましたが)、最初法学で博士号をとり、裁判所で働いていましたが、後に海底考古学を学び、海底の文化遺産を調べて歴史を明らかにする海底考古学の分野で、旧ソ連の指導的立場となり、数々の業績を残したということです。

次男のレヴォン・オベリ (Levon Orbeli, 1882–1958) は、医学の道に進み、生理学者のパブロフの下で修業を積んだ後、神経生理学の分野で多くの業績を残すとともに、アルメニアにおける生理学の発展にも貢献したということです。

最後に、末っ子のホブセプ・オベリ (Hovsep Orbeli, 1887–1961) は、考古学の道に進み、アルメニアの古都アニ遺跡の発掘と調査に始まり、ダゲスタン共和国など、東方の遺跡を調査、研究を行いました。その後、彼はエルミタージュ美術館の館長や、レニングラード国立大学の東洋史学科長などを務めました。

展示室はいくつかの部屋に分かれ、彼らの紹介や身の回り品を展示する部屋と、彼らの仕事場を復元した部屋があります。こちらはホブセプのレニングラードの仕事場を復元した部屋です。机や書棚は、彼が実際に使っていたものを持ってきたのだそうです。

記念館のすぐ隣は、オベリ3兄弟のレリーフを配置した庭園になっていました。

そして、その向かいは、私が泊まっているホテルです。

さて、記念館の次は、古い修道院へ向かいます。ホテルから上り坂を歩いて数分のところです。途中、銀行があったので、米ドルを少し両替しました。

ホテルを離れてほどなく、先程のオベリ兄弟のレリーフのすぐ裏手にあるビルは、どうも工事が途中で止まっているようでした。エレヴァンでも目にしましたが、ここでも、ホテルの自室のベランダからも、途中で工事が止まっているような家屋やビルをそちらこちらに目にします。

歩いていくうち、修道院に着きました。

やってきました修道院は、ケハリスの修道院 (Monastery of Kecharis) と呼ばれるもので、修道院自体は5世紀頃からあったようですが、現在の建物は、11世紀から13世紀にかけて建てられたものだそうです。当時、ツァカゾールは、この修道院で知られ、修道院とともに、当時の西欧と同じような大学もあり、大変栄えていたとのことでした。この修道院は、現在でも、アルメニア国内でよく知られた修道院のようです。

敷地内には、もっと古い時代の遺構と思われるものもありました。

敷地内だと建物の全景を入れるのに苦労しました。外から見るとこんな感じです。

修道院を一通り見た後、希望する人は、ここからさらに1キロ程先にあるリフトまで歩くことになりました。冬はスキー場になっている山に登るようです。

車もほとんど通らない道を、ずんずん歩いていきます。

途中、民家を建てているところに、小屋がありました。新築中の仮住まいでしょうか。壁にお花や滝(右側の角)などが描かれていて、ちょっぴりかわいらしいです。

しばらく歩き、坂を下って登ると・・・リフトが見えてきました。

こちらがリフト乗り場です。

乗り場の近くに、スキー場の全体図と思われる絵がありました。一番下の 1966m (以下、数字は標高と思われます) というのが現在地で、左側のリフトに乗り、図の中央部、小さく 2233m と書かれている地点まで登ります。山の頂上は 2819m とありますが、かなり高いですよね。日本のスキー場にこんなに高い場所はあるのでしょうか?

あと、乗り場の近くに、こんな水道がありました。水はちょろちょろと出っぱなしなのですが、瓶(かめ)から出て樽に入るという、なかなかおもしろい形です。

往復のチケットを 1,300 AMD (300円くらい?)で買い、リフトに乗ります。

ゆっくりと山の上へ登っていきます。

後を振り返ると、先程立ち寄った修道院が見えました。

ここがリフトの降り口です。と、今度は、希望者が、さらに歩いて上へ登ることになりました。

何人かで上を目指します。どこまで行くのでしょう。とりあえず、今の時刻が18:30前で、リフトは19:00で止まるので、それまでにリフトまで帰ってくる必要があります。

先程のリフトの降り口を見下ろす場所まで登りました。いい眺めです。

さらに上を目指します。

どうやらここまでのようです。リフトはだいぶ下になりました。荒涼とした大地と山をぐるっと見渡す、すばらしい光景でした。まん中の部分、地平線にうっすら浮かぶ青色の部分は、明日訪れるセヴァン湖のようです。

もしも私が、今のように交通機関が発達していない時代にここに生まれ育っていたとしたら、この光景が、自分の知っている世界のすべてだったことでしょう。そして、そこから外へ足を踏み出すというのは、文字通り「未知との遭遇」だったのではなかったかと、そんな思いがしました。これまでにない世界観を味わった気分です。

ついでに、吹奏楽の「アルメニアンダンス」をご存知の皆さん、冒頭部分の音楽は、まさにこの情景そのものです!なかなか写真では伝わりにくいのが歯がゆいが・・・曲のイメージが湧かなくて困ったら、ここまで見に来いと言っても過言ではありません。ぜひ来てみて下さい。損はしません、私が保証します。それにしても、あの曲の冒頭部分、アルメニアの自然の雄大さや厳しさ、暖かさといった、この情景をよく表現してるよ。アルフレッド・リードも偉大やなぁ・・・

(吹奏楽にあまりなじみのない方に説明しますと、「アルメニアンダンス」という、日本の吹奏楽で有名な組曲があります。作曲したのは、アメリカ人のアルフレッド・リード (Alfred Reed) という、これまた日本の吹奏楽界で大変有名な作曲家・指導者で、数年前に亡くなりましたが、彼の曲は、今も日本でたくさん演奏されています。「アルメニアンダンス」は、アルメニアの民謡を題材にとった組曲ということで、少なくとも、私の前後の世代の、ほぼすべてのブラスっ子、ブラス野郎達におなじみの1曲のはずです。しかし「アルメニアンダンス」は知っていても「アルメニア」という国そのものはよく知らない・・・というのが大方ではないかと思います。私もそのような一人でしたので、今回の旅で、この曲の一端を感じるチャンスがあるのではないかと、期待していたのでした。)

さて(熱く語ってしまいましたが、ご容赦ください)、だんだん日暮れも近づいていたので、私達は急いで山を降りました。リフトの降り口の近くにも、さっきと同じような水道がありましたが・・・こちらは水が出ていませんでした。周りの景色も荒涼としていてちょっと寂しげです。

私達がリフトでふもとに降りると、間もなくブザーが鳴ってリフトが止まりました。ギリギリセーフだったみたいです。

その後、リフト組が歩いてホテルに戻る頃には、外はうっすら暗くなっており、ホテルに戻ると、すでに先に戻っていた人達が夕食で一杯始めていました。今夜もまた一杯・・・

最後に、今回歩いたコースの記録です。ホテルの向かいの記念館を出てから、修道院、リフト、山登りと、意外にもまっすぐ真西に向かって歩いていたようです。あと、現時点では、Google Mapsにもほとんど道が描かれていませんね・・・
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