2010-10-17

公園掃除

私が住んでいる町の町会では、毎月、班の交代で、近所の公園掃除をしています。自分の班に回ってくる回数は、だいたい春夏秋冬1回ずつです。

そんなわけで、今日はその公園掃除の「秋の部」のはずだったのですが・・・普段は前の週になると回覧板などでお知らせがあるのですが、今回はありませんでした。「今日」とわかっていたのは、たまたま、春に年間の行事予定が配られていた時に、カレンダーに書き込みをしていたからです。

以前、やはり掃除があるはずの日に連絡がなく、結局その日は流れて、後日あらためて掃除に行った日もありました。そこで、朝8時、人がいなければそのまま帰ればいいし、と、とりあえず支度して路地に出てみると・・・人はほとんど集まっていなかったのですが、やらないというわけではないらしく、合計3人でしたが、やることになり、公園へ向かいました。

私の班も、普段は10人くらい出て公園の一角を熊手で掃除するのですが、普段はひょろひょろやっているところ、今日は3人ということで、さすがに気合が入りました。昨日、家族で買い物でさんざん歩いても大して筋肉痛にならなかったのに、今日は落ち葉拾いでかがんだりする機会が多かったためか、ところどころ筋肉痛になっています。

今日の件は、班長さんの方で連絡し忘れたみたいですが、なかなか大変だな、と思いました。ちなみに、今度の土曜日は、防災訓練があります。昨年は行事で忙しかったりしてサボってしまったので、今年は何もなければまた行こうか、と思っていますが、どうなることやら・・・

2010-10-15

アルメニア紀行 (4): 記念館、修道院、リフトで山を登る(9月8日)

9月に国際会議で訪れたアルメニア日記の第4弾です。前回の記事から半月近く経ちましたが、ようやく次の日の分を書きました。これまでの日記には Armenia2010 のラベルがついていますので、リンク先をご覧下さい。

今日から会議ですが、前もって渡された日程表によると、食事の時間が

  • 朝食:9:00
  • 昼食:13:00
  • 夕食:不定だが、大体19:00
となっていて、特に朝食の時間が遅いのが気になりました。何でだろ〜、と思っていましたが、アルメニアに来てみると、こちらは夏時間で、冬時間より1時間進んでいます。そこで、食事の時間を冬時間で考えてみると、朝食が8:00、昼食が12:00、夕食が18:00となり、つじつまが合うと思います。結局、現地では確認できませんでしたが、ここのホテルでは夏も冬時間で生活をしているのだろうか・・・と想像しました。

そんなわけで、朝は結構ゆっくりでして、日の出も遅いようです。7:30頃、起き出してみると、ちょうど日の出のすばらしい景色が広がっているところでした。

ちなみに、もう少し日が昇ってから、ベランダからの眺めを数カット撮って合成したのが、こちらの写真です。

さて、朝はゆっくり過ごし、9:00にレストランで朝ご飯を食べ、会議は9:45からですが、特に急ぐことなく支度をします。・・・と、会議の部屋を確認するのを忘れていました。レストランの向かい側に、比較的大きな会議場のような部屋がありそうだった・・・のですが、閉まっているようです。レセプションに行くと、レセプションの裏手・・・と教えてもらい、行ってみると・・・ありました。

部屋に入ってみますと、たいへんこぢんまりとした部屋です。その上、普通、このような会議は、講義室のように机が並んでいるような部屋で行うものですが、中心の大きなテーブルを取り囲むという、非常にユニークな形になっていることがわかりました。今回の参加者数は30人に満たないという、非常に小さな規模なので、このくらいがちょうどよいでしょう。実際、会議が始まってみると、大変ディスカッションがしやすい環境で、各講演の間の質疑応答も活発に行われ、ためになる話を聞くことができました。

そんな中で、参加者の多くが困ったこと・・・それは、参加者が個別に使える(はずの)インターネット接続が、使えないということです。一応、会議の参加要項では、エレヴァンでも、ここツァカゾールのホテルでも、参加者は各自無線LANが使えることになっており、エレヴァンでは問題ありませんでした。そこで、ここのホテルでも使おうとしたのですが・・・

最初、レセプションに尋ねると「部屋番号をパスワードにすればよい」とのこと。しかし、誰もつながりません。今朝も、朝のあいさつ代わりに「無線LANつながった?」とお互いに尋ねる声が飛び交うほど。こんな話を聞くと「そんなにインターネットにつなぎたいの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

たしかに、私のように、インターネット接続の目的がアルメニア日記の編集やら会議の模様をTwitterでだらだら書くやらといったどうでもよいことでしたら、まぁ我慢しますし、先生方の中にも、普段追いかけられているメールを読まずに済むので、出張中はメールを読まないという人も(最近はまれですが)います。しかし、一方で、今夜、別の研究会にインターネットで参加して講演するという先生もいますので、やはり研究の場には必要不可欠ということでしょう。その結果、午前中の会議が終わって昼休みになったらどんなことになったかというと・・・

レセプションに長蛇の列、というか、皆さん、レセプションの前にたかって、何をしているかというと、インターネットの接続方法の問い合わせです!

しかも、皆さんのノートパソコンがカウンターの上にずらりと並ぶ、壮観(珍奇?)な光景。

(ちなみに、本当に接続が必要な人には、現地の委員が個別に対応した以外、大方の参加者は、結局、接続できませんでした。そのかわり、ホテルのロビーにはインターネット端末があり、メールはそこで何とかなりました。Windows でしたが、日本語の表示も何とかなりましたし、日本語入力も、すばらしいオンラインIME (http://ajaxime.chasen.org/) のおかげで何とかなりました。)

さて、午後の会議も15:30には終わり、16:00は観光に出発です。私達がまず訪れたのは、ホテルのちょうど向かいにある「オベリ兄弟記念館」です。

この記念館は、 アルメニア出身で、科学で旧ソ連に知られる顕著な業績を遺した、オベリ家の3兄弟(ルベン/レヴォン/ホブセプ)の業績をたたえて展示しているもので、特に、兄弟のまん中のレヴォンがツァカゾール出身だったことから、ここに記念館が建てられたようです。ツアーはロシア語のガイドとアルメニアのガイドに分かれ、アルメニアのガイドさんの説明を、国立科学アカデミーから参加された先生が英語に訳して下さいました。

3兄弟の長男のルベン・オベリ (Ruben Orbeli, 1880–1943) は(写真を撮り忘れてしまいましたが)、最初法学で博士号をとり、裁判所で働いていましたが、後に海底考古学を学び、海底の文化遺産を調べて歴史を明らかにする海底考古学の分野で、旧ソ連の指導的立場となり、数々の業績を残したということです。

次男のレヴォン・オベリ (Levon Orbeli, 1882–1958) は、医学の道に進み、生理学者のパブロフの下で修業を積んだ後、神経生理学の分野で多くの業績を残すとともに、アルメニアにおける生理学の発展にも貢献したということです。

最後に、末っ子のホブセプ・オベリ (Hovsep Orbeli, 1887–1961) は、考古学の道に進み、アルメニアの古都アニ遺跡の発掘と調査に始まり、ダゲスタン共和国など、東方の遺跡を調査、研究を行いました。その後、彼はエルミタージュ美術館の館長や、レニングラード国立大学の東洋史学科長などを務めました。

展示室はいくつかの部屋に分かれ、彼らの紹介や身の回り品を展示する部屋と、彼らの仕事場を復元した部屋があります。こちらはホブセプのレニングラードの仕事場を復元した部屋です。机や書棚は、彼が実際に使っていたものを持ってきたのだそうです。

記念館のすぐ隣は、オベリ3兄弟のレリーフを配置した庭園になっていました。

そして、その向かいは、私が泊まっているホテルです。

さて、記念館の次は、古い修道院へ向かいます。ホテルから上り坂を歩いて数分のところです。途中、銀行があったので、米ドルを少し両替しました。

ホテルを離れてほどなく、先程のオベリ兄弟のレリーフのすぐ裏手にあるビルは、どうも工事が途中で止まっているようでした。エレヴァンでも目にしましたが、ここでも、ホテルの自室のベランダからも、途中で工事が止まっているような家屋やビルをそちらこちらに目にします。

歩いていくうち、修道院に着きました。

やってきました修道院は、ケハリスの修道院 (Monastery of Kecharis) と呼ばれるもので、修道院自体は5世紀頃からあったようですが、現在の建物は、11世紀から13世紀にかけて建てられたものだそうです。当時、ツァカゾールは、この修道院で知られ、修道院とともに、当時の西欧と同じような大学もあり、大変栄えていたとのことでした。この修道院は、現在でも、アルメニア国内でよく知られた修道院のようです。

敷地内には、もっと古い時代の遺構と思われるものもありました。

敷地内だと建物の全景を入れるのに苦労しました。外から見るとこんな感じです。

修道院を一通り見た後、希望する人は、ここからさらに1キロ程先にあるリフトまで歩くことになりました。冬はスキー場になっている山に登るようです。

車もほとんど通らない道を、ずんずん歩いていきます。

途中、民家を建てているところに、小屋がありました。新築中の仮住まいでしょうか。壁にお花や滝(右側の角)などが描かれていて、ちょっぴりかわいらしいです。

しばらく歩き、坂を下って登ると・・・リフトが見えてきました。

こちらがリフト乗り場です。

乗り場の近くに、スキー場の全体図と思われる絵がありました。一番下の 1966m (以下、数字は標高と思われます) というのが現在地で、左側のリフトに乗り、図の中央部、小さく 2233m と書かれている地点まで登ります。山の頂上は 2819m とありますが、かなり高いですよね。日本のスキー場にこんなに高い場所はあるのでしょうか?

あと、乗り場の近くに、こんな水道がありました。水はちょろちょろと出っぱなしなのですが、瓶(かめ)から出て樽に入るという、なかなかおもしろい形です。

往復のチケットを 1,300 AMD (300円くらい?)で買い、リフトに乗ります。

ゆっくりと山の上へ登っていきます。

後を振り返ると、先程立ち寄った修道院が見えました。

ここがリフトの降り口です。と、今度は、希望者が、さらに歩いて上へ登ることになりました。

何人かで上を目指します。どこまで行くのでしょう。とりあえず、今の時刻が18:30前で、リフトは19:00で止まるので、それまでにリフトまで帰ってくる必要があります。

先程のリフトの降り口を見下ろす場所まで登りました。いい眺めです。

さらに上を目指します。

どうやらここまでのようです。リフトはだいぶ下になりました。荒涼とした大地と山をぐるっと見渡す、すばらしい光景でした。まん中の部分、地平線にうっすら浮かぶ青色の部分は、明日訪れるセヴァン湖のようです。

もしも私が、今のように交通機関が発達していない時代にここに生まれ育っていたとしたら、この光景が、自分の知っている世界のすべてだったことでしょう。そして、そこから外へ足を踏み出すというのは、文字通り「未知との遭遇」だったのではなかったかと、そんな思いがしました。これまでにない世界観を味わった気分です。

ついでに、吹奏楽の「アルメニアンダンス」をご存知の皆さん、冒頭部分の音楽は、まさにこの情景そのものです!なかなか写真では伝わりにくいのが歯がゆいが・・・曲のイメージが湧かなくて困ったら、ここまで見に来いと言っても過言ではありません。ぜひ来てみて下さい。損はしません、私が保証します。それにしても、あの曲の冒頭部分、アルメニアの自然の雄大さや厳しさ、暖かさといった、この情景をよく表現してるよ。アルフレッド・リードも偉大やなぁ・・・

(吹奏楽にあまりなじみのない方に説明しますと、「アルメニアンダンス」という、日本の吹奏楽で有名な組曲があります。作曲したのは、アメリカ人のアルフレッド・リード (Alfred Reed) という、これまた日本の吹奏楽界で大変有名な作曲家・指導者で、数年前に亡くなりましたが、彼の曲は、今も日本でたくさん演奏されています。「アルメニアンダンス」は、アルメニアの民謡を題材にとった組曲ということで、少なくとも、私の前後の世代の、ほぼすべてのブラスっ子、ブラス野郎達におなじみの1曲のはずです。しかし「アルメニアンダンス」は知っていても「アルメニア」という国そのものはよく知らない・・・というのが大方ではないかと思います。私もそのような一人でしたので、今回の旅で、この曲の一端を感じるチャンスがあるのではないかと、期待していたのでした。)

さて(熱く語ってしまいましたが、ご容赦ください)、だんだん日暮れも近づいていたので、私達は急いで山を降りました。リフトの降り口の近くにも、さっきと同じような水道がありましたが・・・こちらは水が出ていませんでした。周りの景色も荒涼としていてちょっと寂しげです。

私達がリフトでふもとに降りると、間もなくブザーが鳴ってリフトが止まりました。ギリギリセーフだったみたいです。

その後、リフト組が歩いてホテルに戻る頃には、外はうっすら暗くなっており、ホテルに戻ると、すでに先に戻っていた人達が夕食で一杯始めていました。今夜もまた一杯・・・

最後に、今回歩いたコースの記録です。ホテルの向かいの記念館を出てから、修道院、リフト、山登りと、意外にもまっすぐ真西に向かって歩いていたようです。あと、現時点では、Google Mapsにもほとんど道が描かれていませんね・・・
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2010-10-03

古文書、ブランデー、高原の村へ移動(9月7日)

アルメニアの日記、帰国からずいぶん時間が経ってしまいましたが、一応、忘れずに書いています (なかなか時間がとれないもので... ^^;) 2日目の分です。


本日から、会議の日程が始まりました。今日の会議は、国立科学アカデミー (National Academy of Science of Republic of Armenia) と、今回の会議を招聘した国立情報学研究所 (The Institute for Informatics and Automation Problems) の表敬の意味合いが強かったような気がしますが、アルメニアの計算機科学事情を知る上では貴重な機会になりました。

今日は、実質的な会議の開催地(後述)へ移動するため、朝、荷物をまとめて皆でマイクロバスに乗り、ホテルを出ます。エレヴァンの道路は結構車で混雑しています。

それと、写真に写っている信号機にちょっと見えるかもしれませんが、エレヴァンの信号機には、車両用、歩行者用の信号それぞれに「青の時間があと何秒」を示すカウントダウンの表示が、私が見た限りほぼすべての信号機についていました。昨年、韓国のソウルを訪問した際、歩行者用の信号機に同様のカウントダウン表示を見ましたが、エレヴァンはより徹底して興味深かったです。交差点によってはすぐに信号が変わるところもあったので、私のようなよそ者には便利ですね。

科学アカデミーに着き、中に入ります。私のカメラのレンズには収まりきらない大きな建物です。会議のレジストレーション(参加登録)を行い、名札やら予稿集やらバッグやらといった、必要なものを受け取りました。

参加者のうち、昨日日中までにエレヴァンに着いた人達はホテルに泊まりましたが、昨夜から今朝にかけてエレヴァンに着いた人達とは、ここで合流です。

科学アカデミーで会議を行った部屋の様子。大きな円卓のある、天井がドームのように高い部屋で、普段数学の会議をやるような部屋との格差(もちろんこちらが拡張高い!)に、同行の人ともども、ちょっと戸惑います。

プロジェクタのスクリーンは、ちょうど部屋の入口の上に位置しています。講演が始まってからの出入りは、ちょっと勇気が要りますね。

本来であれば、会議の内容も詳しく書きたいところですが、今はとりあえず先を急ぎましょう。科学アカデミーでは、招待講演として、アルメニアの計算機科学分野の研究について、歴史やこれまでの主要な研究成果、現状に関する話がありました。

招待講演が終わると、科学アカデミーを後にして、次は国立情報学研究所に向かいます(バスから撮ったので、バスのサングラスの青色が写っています)。現地の人によると、現在の建物は、1970年に建てられたのだそうです。自分とほぼ同い年だ(私は1971年生まれ)、と言ったら笑っていました。

こちらでは、研究所の先生方から、研究所の沿革や、現在の研究分野についての説明がありました。昨今「グリッドコンピューティング」が世界的に盛んになっていますが、アルメニアでも、自国やEUなどの資金援助をもとに、グリッドのネットワークを構築しているようです。

さて、今日のお勉強はこんなところでおしまい。研究所で昼食の後、まずはマテナダラン (The Matenadaran, 国立古文書館) へ行きました。玄関に座っている人物(像)は、聖メスロプ・マシュトツ (St. Mesrop Mashtots) で、アルメニアの文字を作った人です。

ここから坂を上って建物に入ります。

建物は小高い丘になっていて、玄関前からは周囲を見下ろすことができます。

さて、もともと「マテナダラン」は、アルメニア語で書かれた写本を保管する建物の一般的な呼び名で、主にアルメニア周辺の地域にたくさんあったものですが、近代以降、国レベルで古文書の収集が進み、第2次世界大戦後に、国立古文書館になったということです。

今回は、ロシア語のガイドと英語のガイドの2グループに分かれて、中の展示品(写本)を見ました。たくさんあって写真に撮りきれませんでしたが、以下、一部を紹介します。

薬草に関する書物。ハーブのたぐいのようです。キャプション(字幕)がピンぼけですが、18世紀頃の本のようです。

アルメニアの音楽に関する書物。キャプションによると、13〜14世紀の本のようです。

同じく、音楽に関する書物。音階などが書かれているものでしょうか。

...と、ここで、私のカメラの電池が切れてしまいました!昨年、バッテリーを買い替えたのですが、何せ、何世代も前のカメラですので、100枚くらいが限界のようです。というわけで、今日の残りの写真は、携帯電話によるもので、ピンぼけ手ぶれ出まくりで恐縮ですが、引き続きご覧下さい。

展示品には、アルメニアの古文書の他、外国の元首から贈られたような、各国の貴重本もありました。日本語の本で展示されていたのが、1812年の「北斎漫画」。

さて、マテナダランを出て、次に向かったのが、アルメニアのブランデー工場として有名な「エレヴァンブランデー工場 (Yerevan Brandy Company. トップページでは、あなたがその国で飲酒可能な年齢に達しているかどうか尋ねられます。webサイトを進むと音が鳴るので注意)」です。

アルメニアに行く直前の下調べで初めて知りましたが、ブランデーはアルメニアの名産品の一つです。かつては「アルメニア・コニャック」とも呼ばれましたが、現在「コニャック」は、フランスのしかるべき地域でしかるべき工法で造られたもののみが名乗ることを許されているそうで、現在はアルメニア・ブランデーと呼ばれるのが一般的のようです。そして、これから訪ねる工場(会社)が、アルメニア・ブランデーの最大手です。

ここでは、女性のガイドさんが、工場の中を案内してくれました。ブランデーは、ぶどうの果汁を発酵、蒸留した原酒を、何種類かブレンドし、樽の中で熟成させることで作られます。ここのブランデーは、発酵や蒸留の工程は、エレヴァンとその周辺の地域で行っていますが、ブレンドと熟成の工程は、この工場のみで行っているそうです。

生産量は、2008年が(750ml換算?)約1,200万本、その後世界的な経済危機により、2009年は約900万本まで落ちましたが、今年は生産量が上向いているとのことでした。生産量のうち、9割以上が輸出されるそうです。

アルメニアは隣国のアゼルバイジャンと領土に関する問題を抱えていますが、こちらは、アゼルバイジャンとの紛争の停戦を記念して作られた「平和の樽 (Peace Barrel)」です。訪れた人達がたくさんサインをしていっています。アルメニア国内で唯一、アゼルバイジャンの国旗が掲げられている場所とのことでした。

工場の奥にあるのが「VIPのmy樽」の列です。ここには、各国の要人や芸術家などの、個人の樽が収められています。一度樽に入れられた原酒は、所有者本人(生前)、家族や遺族の立ち会いのもとでのみ、ブレンディングや試飲がされ、それ以外の時は厳重に保管されます。

これらのmy樽の中で最も有名という、ロシアの故・エリツィン元大統領のmy樽です。

そして、この列の一番奥には、工場で現存する最古の樽がありました。ガラスのケースに入った2つの樽は、1902年に仕込まれたものだそうです。今年で108年もの。

その樽のそばには、昔の事務机の再現とおぼしきセットがあり・・・

その机の上には、日本の「タイガー計算器」とそっくりな、手回し式卓上計算器がありました。旧ソ連製でしょうか?

さて、樽の蔵の見学が終わりますと、次は資料室みたいな部屋へ。

部屋の一番奥の机の上にある瓶、これは、先程見た、工場最古の樽から取り出したブランデーだそうです。今年で108年もの。品質には問題ないそうですが、味はどんな感じでしょうか。

部屋の中程にあるキャビネットには、この工場に残る歴代のブランデーが飾られています。

その中にあった1本。第2次世界大戦末期に行われたヤルタ会談で、イギリスのウィンストン・チャーチルが、ソ連のスターリンからアルメニアのブランデーを勧められたところ、その味にいたく感動し、以降、毎年400本とか、毎日1本飲めるだけの本数がチャーチルのもとへ送られたという話がありましたが、これが、チャーチルに送られたのと同じ "ドゥヴィン (Dvin)" というブランドのボトルです。

案内の人によると、チャーチルに送られた本数は毎年360本と言っていました。あと、もう一つ聞いたエピソードでは、チャーチルにブランデーを送っている期間中に、工場の主任ブレンダー(ブランデー調合の責任者)が収容所送りになり、ブランデーの味が落ちたことに気がついたチャーチルが、スターリンにその理由を尋ねたところ、スターリンからは「主任ブレンダーがシベリア送りになっている」という答えがありました。そこで、チャーチルが、ぜひブランデーの味を元に戻してほしいとスターリンに頼んだところ、その主任ブレンダーはあっという間に収容所から釈放されて工場に戻り、勲章まで授けられたということです。

さて... ブランデー話が延々続いてしまってすみません(まだ続きます)。工場見学の後は、試飲タイムとなりました。3年もの、10年もの、20年ものを試すことができました。

3年ものは、もちろんおいしかったですが、アルコールの刺激が強い、いわゆる「若造り」という印象がありました。これまでに飲んだことのあるブランデーとも似た感じです。しかし、10年ものは、そのような刺激がなく、私がこれまでに飲んだブランデーにはないまろやかさで、非常に驚きました。そして、20年ものになると、もっとまろやかさが増していました。当初、おみやげに買うのは3年ものくらいかなあと思っていたのですが、この試飲で10年ものに変更。20年ものは、さすがに値段が高そうということと、あまりにもまろやかですいすい飲み過ぎそうなので・・・

ちなみに、隣に座っていたドイツの若い人は、1滴も飲んでいなかったので「飲まないの?」と尋ねたら「うん。やっぱりビールが最高」との答えでした (^^) そこで、こっちはブランデーを飲みながら、ドイツのビールの話で盛り上がったりして・・・

試飲の後は、お約束のお買い物です。私は、自分の実家、かみさんの実家、そして自宅用に、10年もの (「アフタマール (Axtamar)」というブランド) 250ml の小瓶を3本買いました。1本 5,000 AMD (アルメニアの通貨:ドラム)、日本円で1,000円ちょっとでしょうか。日本で買うと(そもそもアルメニアのブランデーを見かけたことがないのですが、webの情報で)500mlで6,000円前後のようですので、かなりお買い得感がありました。

そんなわけで、お買い物も終え、ブランデー工場を後にした私達は、会議の本格的な開催地である場所に向かいます。エレヴァンから50kmほど離れた、ツァカゾール (Tsakhkadzor) という村です。事前に得た情報 (村のホームページ) によると、小高い高原にあり、スキーのリゾート地として知られ、云々・・・といった感じですが、Google Maps でも道路は1本しか描かれておらず、どんな場所か実感が湧きません。

高速道路でエレヴァンを出ると、エレヴァンも標高1000mくらいの高原にあるわけですが、どんどん上り坂を登っていきます。道路の周囲は四方、なだらかな大地で、はるか向こうに山が見えます。

こんな景色が延々と続きます。

日本の風景と比べていちばん奇妙だったのは、視界の奥に広がる山や大地に、木がほとんど生えていないことです。茶褐色のはげ山、もしくは、鉄道模型のレイアウトを作る際に(自分は実際に作ったことはありませんが)、木を植える前の状態の山、といった感じでしょうか。

... と、急な上り坂を登っていたら、だんだんバスのスピードが落ちてきて、止まってしまいました!故障したのでしょうか、ガス欠?エンジンがまだかかっているからガス欠ではなさそうだけど・・・アナウンスもないし、乗り込んだ私達はそれぞれ話し続けています。ま、きっとどうにかなるでしょう!バスが動かなくなったら迎えのバスを呼ぶかもしれませんし、まだ日没までは間がありそうなので、何とかなるだろう・・・と開き直れるあたりが、日本とは大分違う感じでおもしろいです。日本ではきっとこうはいかないだろうな・・・と。

そう思っているうちに、バスは威勢のよいエンジン音をあげて再び走り出しました。といっても景気がいいのは音だけで、たぶんギアを1速で走っているのでしょう、スピードはほとんど駆け足程度です。上り坂が続いて息切れという感じ。先の道を見ると、上り坂が途切れていて、間もなく峠のようです。それ、あと少し・・・と祈る気持ちで前を見ていたら、ようやくバスは峠を越えて下り坂に入り、今度はさっきの調子がウソのように、びゅんびゅん飛ばし始めました。

そうしているうちに、高速道路を降り、一般道で山に入り始めました。住宅地を通ります。

そして、ようやく、会議&宿泊場所のホテルにたどり着きました。

ホテルにチェックインして自分の部屋に入りました。バルコニーからの外の景色です。ホテルは坂の上にあるようで、大変見晴らしがいいです。階下に村が広がっている感じです。はるか向こう、山のふもとにある白い固まりは、ふもとの街のビル群です。高速道路はあの近辺で降りて、山を上がってきました。

荷物を置いたら、早速ディナーということで、部屋を出ようとしたら、なんと部屋のドアの取っ手が壊れてしまいました!幸い、レセプションに連絡したら、係のおじさんがやってきて、すぐに直してくれましたが、ドアのネジ穴や金具のへこみ具合からして、このドア、それなりに具合は悪そうですね。ドアにちょっと同情します。なお、錠前は、先日ドイツで泊まったホテルと同じく、鍵を2回転させて施錠/解錠するものでした。

ドアを直してもらい、レストランに行ったら、皆さんすでに盛り上がり始めていましたが、ディナーでもいろいろな話で盛り上がり、気がついたら大分時間が経っていました。さっさと寝て翌日に備えることにします。

最後に今日の行程の記録を載せておきます。
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